株価の変動は経済の勉強?        バックナンバー

昔から、若い人たちに「捨ててもいい気持ちで株を買うと勉強になる」と勧めてきた。あくまでも経済の勉強の一環で、専門学校に通って勉強してもお金はかかる。それと同じ感覚で買うことを勧めていたのである。 

昨年のリーマンショックの直後に、私自身も「ヘソクリ」で株を買ったことはコラムでも書いた。当時の平均株価は7千円前後だったと記憶している。現在の株価は約1万円なので、わずかながら利益が出ている。もちろん、はなから大儲けなど期待してはいない。

 この1年間の株価の変動は実に目まぐるしかった。さらに近く景気の2番底が来ると予想する経済評論家もいる。しかし、8千円台から1万円台の間に納まるのではないか。私のように現物(手持ちの現金)で勉強している者には、その程度の株価の変動は大した問題ではない。むしろ、経済のいい勉強になるくらいだ。

 最近、特に思うことは、評論家は少し株価が上がればバラ色の株価を予想し、逆に下がれば底なし沼にでも落ちるかのような論評を加える傾向があることだ。

 この1年間本当に勉強になった。それは「株はマネーゲーム」であるという、従来から言われていたことを実感したことである。1分1秒で、その企業の価値が上下するものではない。しかし、現実に株価は上下している。その原因は思惑以外の何物でもない。

 プロとアマの違いはほとんどないとも思われる。実際、プロとアマの違いはないというデータもあるようだ。上げ調子の時期に買えば、購入した株価は上がり、下げ調子の時期はその株価は下がる。

 さらに、日本の株価はアメリカの株価に強く連動している。ニューヨーク市場の株価を見れば、ほぼ日本の株価はわかる。もう一つの要因は為替レートである。円安になれば上がり、円高になれば下がる。実に単純明快で、広く知られている常識である。

 それは日本経済が輸出に依存体質であることの裏返しでもある。この体質を変えない限り、日本経済の脆弱さは是正しないだろう。しかし、国内需要を喚起する要素は、悲しいかな見当たらない。

 どういうことか。マスコミ報道によれば、何十万人もの派遣切りになった人たちの雇用保険給付が切れる時期が迫っていることが一つ、加えて人口の減少である。人口の減少はジワジワと、まるで真綿で首を絞めるかのように、日本経済を縮小再生産に向かわせるとしか考えられない。

 ある学者が唱えたように、「強欲資本主義」が日本経済だけでなく、日本人特有の「つつましく生き、他人を思いやる」資質を失わせつつあるように思えてならない。1億総中流の時代から、勝ち組、負け組と称される下剋上の社会へと、ますますそのスピードを速めているようだ。

 ところで、企業は誰のものか?ある人は「消費者のもの」、ある人は「株主のもの」、「経営者のもの」「従業員のもの」と答える人もいるだろう。消費者に支持されなければ存在理由は失われるため、これは言わずもがなであろう。しかし、2番目は?の問いにどう答えるであろうか?

 十数年前までは、本音の部分において「経営者のもの」であった。株主の存在は現在と比べて極めて低かったように思う。それが十年ほど前から「株主」へとウェイトが明らかに移っている。そのこと自体は経営の失敗を防ぐ意味からも決して悪いことではない。

 しかし、現在の株主の思惑と言えば、その企業を応援するのではなく、株価の変動で利ザヤを稼ぐ目的以外にない者も多い。禿鷹ファンドがそれを象徴している。

 株を買うことを「投資する」という。しかし、その企業が将来どうなるかなど、まったく意に介せず、目先の利益を得ることだけを目的にした購入は、決して投資ではなく「投機」である。経営者は「投機する」人たちの利益にばかり目を向けて、目先の株価の維持に汲々としているように思われてならない。

 昨年来続いている派遣切りなどの根っこも実はそこにあるのではないか。労働分配率をホンの少し上げ、配当金をホンの少し減らせばいいだけのことである。確かに株価は短期的には下がるであろうが、内需は落ち込まないだけでなく、従業員の企業への忠誠心は上がり、逆に長期的には株価も上がることになる。

 株の購入は本当にいい勉強になる。そのことをしみじみと感じている昨今である。

2009年12月


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